「自己責任」は当事者が思っているほど責任が重くない

群衆としての日本人

「自己責任」は本人の行為すべてが該当するわけではありません


日本で暮らしていると、何か事件があったときによく使われる言葉で「自己責任」があります。

この言葉が有効になるのは、ウィキペディアによると「自分の過失についてだけ責任をとること」となっています。

また本人の判断の欠如、強制が入った場合は自己責任とはなりません。

責任は自分の「過失」によるところだけ負うべきなのです


自己責任とは結局、「自分の過失についてだけ責任を取る」ということがすべてを物語っています。

では過失の定義とは何なのかというと、「不注意でしでかす思わぬ過ち」とあります。

これだと徹夜して仕事をした場合、睡魔が襲う中で「不注意でしでかす思わぬ過ち」とはなりません。

なぜなら徹夜をすることで、判断力が低下して「不注意を起こす状態」を作り出していたからです。

以下自己責任について考えていきます。

事例

仕事の失敗と組織の失敗


筆者は、昔大企業のシステムを作っていた時に「厳しく指導すればしっかり働く」という精神の組織で働いていました。

厳しく指導とは「叱る」ではなく「怒る」のほうです。

「叱る」は相手をより良い方向に導こうとするために、注意やアドバイスをすることです。

「怒る」は自分が言った通りに動いてくれなかったときなどに、自分が腹を立てていることを相手にぶつけてしまうことです。

つまり「怒る」という行為は、怒られた相手の判断の欠如、強制を強いる行為といえます。

特に筆者の場合は、この「怒る」という行為に過剰に恐怖を覚えてしまうのです。

それは筆者のプロフィールをご覧ください。

筆者プロフィール

さらに「怒る」は度を過ぎると、人を殺してしまうことも十分にあり得るのです。

このことは、某広告会社の例を取るまでもありません。

しかもこの「怒る」という行為は、相手に対して過剰に責任を負わせます。

そして組織の失敗を、カモフラージュしてしまうのです。

要するに、「怒りっぽい人」というのは無責任である同時に、自己中心的な人であるといえます。

なぜならその人を採用したのは、他ならぬ「怒った上司そのもの」なのですから。

良心があれば責任を感じて辞めるところ、いつまでも居続けるところが自己中心的であるといえないでしょうか?

海外渡航の自由


続いて海外渡航の事例についてです。

日本では海外渡航の自由は、憲法で保障されています。

しかしその海外で、事件に巻き込まれたら「自己責任」とはいえません。

これも最初の定義で、自分に過失がないからです。

ニュースはある事象を過大にとり上げる性質があり、一方向の情報の発信のため正しい情報がつかみにくい性質があります。

ゆえに誤解をしやすいメディアでもあります。

このメディアの言動に振り回されて、「無過失」であるしそれは偶発的に起こったという事実が隠されてしまいます。

世の中に100%安全というものは存在しないからです。

しかしここでも海外で事件に巻き込まれると、「自己責任論」が幅を利かせます。

「自己責任」と「怒り」の感情は被害者を過剰に攻め立てます。

ゆえに本来は「無事に帰ってきてよかったね」のはずが、「人様に迷惑かけるな」になるのだと思います。

自己責任は世論で言われているほど、過剰な責任は負わない


以上のことから、自己責任は世論で言われているほど過剰な責任は負いません。

しかし世論というのは恐ろしいもので、アッシュの同調実験というものが、世論の正当化を強化します。

アッシュの同調実験とは、簡単にいうと被実験者を除いて全員サクラだった場合、明らかに間違いの回答だとわかっていてもサクラが全員誤回答をすれば、多くの人(被実験者)はそれにつられて誤った回答をしてしまうというものです。

しかし法治国家は世論より、法律が正しいのです。

言葉の定義を明確にして行動しないと、誰かが不正に利益を得てしまいます。

そうならないために、自己責任の範囲を明確にするのは自分を守るためでもあります。

自己責任は、いうほど責任は重くないことを紹介しました。

ご参考になれば幸いです。

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